生活を書く

暇にまかせて。

霧の中

 

義実家に同居する為この地に引っ越してきてから、三年が経ってしまった。

私はその間働きに出ることもなく、毎日家に居た。

 

三年前、引っ越して早々、腰痛で動けなくなり、家の中を這って移動していた。

秋はいのっちの性適合手術の為、タイへ行き、帰ってきてからも何かと世話を焼いた。

冬には再び酷く腰を痛め、二週間布団から起き上がることが出来なかった。この時、もう一生腰を痛めない様に自分で気をつけて生活することを決めた。

 

次の年。

四月に大好きだった祖父が死んだ。

祖父は私の全てを許してくれる様な存在だった。

生まれた時から老人のたくさん居る家で育ったので、家族が亡くなるのは四度目の経験だった。

年齢が年齢なので、いつだって「その覚悟」をしていたつもりだったけど、大好きなおじいちゃんだったからか、喪失感が大きく、暫くの間は朝も夜も泣いてた。

その秋、義祖母が転んで頭から大量の血を流す怪我をした。

あまりの出血に正直、もうダメだと思ったけれど、数針縫うだけで済んだ。

筋力アップのため、毎日一緒に散歩をした。

 

去年。 

義祖母の血糖値の数値が芳しくなく、白米から蒟蒻入り発酵玄米に変えた。

夏前、義祖母が白内障の手術をしたころから、更にふらついて転ぶ様になり、目が離せなくなった。

同じ頃お義父さんが退職して家で過ごす様になった。

秋、義祖母を家で介護することがいよいよ困難となり、入院した。

その頃からお義父さんは体調が悪そうで、みんなに病院に行くことをすすめられていた。

 

今年。

年末に病院に行き、見つかった腫瘍が悪性だということがわかった。お義父さんは年明けからすぐに入院した。お義母さんはほぼ毎日お見舞いに通っていた。

雨水の頃、義祖母が別の病院に転院した。

お義父さんは抗がん剤治療の為、入退院を繰り返していた。肺炎にもなった。

そして五月、 お義父さんが亡くなった。

この夏、義祖母が入院していた病院から「別の場所を探して欲しい」と言わた。

運良くすぐに別の施設に入れることになった。

今度はホームなので、要介護認定が二にならない限りは置いてもらえるとのことで安心している。

要介護二になるほど元気になれば、それはそれで良いのだけれど。

ちなみに今は要介護五で、今年に入ってから家族の前では一度も言葉を発していない。少し視線が動く程度で反応もほぼない。

施設の職員さんには、少しだけ頷く様な反応がある時があるらしい。

 

 

 

こちらに引っ越してからのことを思い出して書いてみたけど、何だか家族のことばかり。

自分はからっぽなんじゃないかと思うことが良くある。

もちろん日々の生活の中で楽しいことや幸せなことはあるけれど、それで良いんだろうか、何もかも中途半端でひとつも頑張れていない。

 

私にはやりたいことがあって、それが出来る会社に入って、色んなことをさせてもらった。

働くことは大変で、辛いこともあったけど、楽しくて一生懸命だった。

辛かった時に社長が「出来ないことに悩まずに、自由に仕事をして欲しい。あなたには笑顔が似合います」という内容のメールをくれたことがあった。

うまくいかないことに悩んで居た当時の私に、その言葉は効果覿面。

そう信じて任せてくれる人が居ることの喜びで、心がスッと軽くなった。

状況がかわらなくても、言葉一つで前向きになれる。

 

 

私は今、自分が目指していたところとは随分と遠くに来てしまったことを感じている。

自分はずっと仕事をしている人間だと思っていたので、三年間仕事をしていないというのはとても大きい。

悪いとは思っていないけど、今の生活に常に迷いがある。霧の中に居る様な。

この先ずっと霧の中で時間を過ごすわけにはいかない。

 

 

この歳になって改めて、どうしたら充実した日々を送れるのか、自分の命の使い方を考えている。

 

 

 

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